越前粟田部蓬莱祀

木遣り唄

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花筐自治振興会

蓬莱祀保存会

蓬莱祀の歴史

蓬莱祀の歴史

粟田部には継体天皇が勧請したとされる「岡太神社」、県の天然記念物「薄墨桜」、謡曲「花筐(はながたみ)」、伝統行事「迹王(どお)の餅」など、昔から継体天皇とゆかりの深い地です。継体伝承を持った地区は各地にありますが、伝統行事で残っている地区は他には無いようです。
蓬莱祀の始まりは深い歴史の谷間に埋もれていますが、継続と中断の歴史は先人達によって記録が残っています。

当社古来之伝記

「当社古来之伝記」岡太神社 元文二年 (1737)
天平勝宝年間(749~757)に再興された蓬莱祀は五穀成就の春祭りでした。天正元年から16年(1573~1588)までは乱世のため中止され、天正17年(1589)に再興されました。

歳暦記と越前粟田部ライシ帳

「歳暦記と越前粟田部ライシ帳」どちらも蓬莱祀の当番者の名を記録した宿帳です。再興した天正17年から慶応3年(1589~1867)まで279年間途切れることなく続けられた証となる、とても貴重な記録です。この記録によれば、通常当番は1軒ですが2軒合同で務めた年もありました。

今立郡誌

三里山の周辺の新横江、下新庄、北新庄、中新庄の村でも明治の初め頃まで蓬莱祀を行っていました。川島村の蓬莱祀は厄年の餅まきとして残っています。その中で粟田部村の蓬莱祀は、最も盛大でした。

男大迹部志 伊藤百助著

江戸時代の蓬莱祀は、年番が一切の費用を負担し、近隣の村から大勢の見物客が栗田部にやって来ました。格式が重んじられ、山車が通る時は蓑笠を脱ぎ通行も禁止すると定められていました。文政11年(1828)に蓬莱祀の蓑笠禁止を無視した幕府領の見物客の行動をめぐって莱祀騒動が起きました。その後は、福井藩の警護が厳しくなりました。江戸後期の嘉永4年(1851)からは簡素化され始め、飢饉で大幅に縮小した年もあり、ついに明治5年(1872)に蓬莱祀は途切れてしまいました。

莱祀図 木津成助画(粟田部本町)

江戸時代の文化12年(1815)に越前国内を調査した「越前国名蹟考」では、粟田部の蓬莱祀を地元の絵師が紹介しています。この絵の「莱祀図」に添えられた説明では「正月13日に栗の木に大餅花を飾り、根は土俵で固めた。根の下を大きな又木に乗せた曳山を造り、町内を曳きまわした。曳きまわした後、神前にて来年の当番をおみくじで決めていた。大餅花は村中に配られ、親戚知人にも配られた。天正17年に再開した莱祀は、神前にて老人20人を選び神楽を奏し、宝祚長久・天下泰平・五穀成就・武運繁昌を祈願した。」と記されています。

莱祀図

莱祀図

10mを超える大きな山車と大勢で賑わう莱祀図を見ると、当時の村の活気が感じられます。山車に「白山三社大権現」とありますが、明治の神仏分離で玉穂宮白山神社大権現神社は岡太神社と社名を変えています。

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